桂林
広西壮族自治区の北東部に位置し、総人口約480万人、年間平均気温19度、年間降水量は1900ミリで温暖湿潤気候に属す。日本では「桂」とは桂(かつら)の木のことですが、中国ではモクセイを意味します。地名はきんもくせいが多いことに由来するという説と、玉桂(肉桂・ニッキ)という樹が多く自生していたことに由来するという二説があります。
湘南
紀元前214年(秦始皇33年)秦の始皇帝が桂林郊外の漓江の上流と湘江をむすぶ運河(霊渠)を築きました。
これにより中国3大河川のうちの長江と珠江の両水系が結ばれ、秦の始皇帝が中国を統一するのに重要な作用をはたしたそうです。
「桂林」という名は秦が広西の地を桂林郡としたことに始まります。このときから桂林は広西の中心都市となったと考えられています。
「南船北馬」といわれるように、華南の地理は水路を念頭に置いて考えなければなりません。 その地形から漓江は広州にのみ向いているように思いがちです。しかし 唐代の詩人韓愈が-「湘江の南(湘南)にある桂林まで来てみれば、あたかも月宮のモクセイの海を遊び歩くようだ」-と詠んでいます。 湘江は長江に続く河です。桂林は水路によって文明の中心地と結びつき、霊渠もその大きな役割を果たしていたといえるでしょう。
桂林は漢の頃は、零渓群に属していました。 諸葛孔明がこの地方の行政にあたったこともあるそうです。
三国になり、呉の孫権の支配下になり始安群とよばれました。
唐代になり桂州とよばれますが、この時代注目すべきは日本に律を伝えた鑑真和上が桂林に滞在したことでしょう。
鑑真和上
鑑真和上は五回目の日本への渡航失敗のあと、漂着した海南島から楊州の大明寺に戻る途中、珠江を上って桂林に一年間滞在しました。
鑑真さんは桂林で大きな歓迎をうけました。地方長官の都督が自ら歩いて城外まで向かい出でたばかりでなく
-五体を地に投げ、接足して礼し、引きて開元寺にはいらしむ。「唐大和上東征伝」-
地上に這って、足に接吻するという最大級の歓待を受けたそうです。
鑑真和上は開元寺に住み宗教活動を行いました。
その後広州に呼ばれて行くことになります。鑑真和上が失明してしまう以前のことです。
5度の渡航失敗(中でも5度目は特に悲惨だった)の後、未だ見ぬ日本を想いながら下った漓江は、鑑真さんにはどのように映ったのでしょうか。
また、日本への渡航を懇願した日本人僧栄叡はその後すぐに亡くなっています。
渡航が成功し、日本に律を伝えることができたのは6度目のことでした(753年)。
桂林はのち宋代に静江府、元の静江路となり、明の時代に桂林府が置かれるようになりました
桂林は3億年前、海の底でした。
そのころ石灰質を多く含んだ物質が少しずつ海底に堆積していきます。
2億4千万年前頃から海底が隆起し陸地になります。
石灰岩は比較的硬い岩石ですが、二酸化炭素を含んだ雨水には簡単に溶けてしまいます。二酸化炭素を含んだ雨水が、石灰岩の地表を流れ溶かす作用を「溶食」といいます。
6400万年前頃には桂林は熱帯であり高温で湿潤な気候の中植物がよく茂り、植物から放出される二酸化炭素を多量に含んだ雨水が、石灰岩層を急速に溶食しました。
溶食された石灰岩層には無数の溝や鍾乳洞ができ、陥没や侵食に、地殻変動による褶曲や断層も加わり長い年月を経て円錐状の峰が残るようになります。
200万年前頃、地殻は隆起し続け、それとともに、陸地が削られて低下する限度である侵食基準面がさらに低下し溶食作用を促進させました。